アメリカ軍の軍事顧問団の将校らは、そんな惨状をアメリカ本国やマッカーサーに報告すると昇進に響くことを恐れて、韓国軍はアジア最高であるとか、韓国軍は面目を一新し兵士の装備は人民軍より優れていると虚偽の報告を行った。
この頃はの末期で、との戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5ヶ月の時、一家はのウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地でに次男のマルコムが病死している。 。 昭和天皇の恐れていたことが、発生したのである。
19トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった。
この攻撃でB-17を18機、P-40との戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。 第二次世界大戦の日本の同盟国、ドイツ・ヒットラー、イタリア・ムッソリーニもその地位にとどまることはできなかった。
19昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。
このことは世界を驚愕させました。 日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、では多くの餓死者・病死者を出すこととなった。
7お母さん」 とお尋ねになったのです。
師団の士官のひとりは「兵員は定数割れし、装備は劣悪、訓練は不足したあんな部隊(第24師団)が投入されたのは残念であり、犯罪に近い」とまで後に述懐している。 しかし、日本側の資料もアメリカ側のものも大体の内容は一致していて、マッカーサーが天皇陛下の人柄に感嘆したというのも事実です。
16マッカーサーもその流れの中で、7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。
また、マッカーサーが昭和天皇との会談において昭和天皇の人柄に感銘を受けたという逸話は日本では広く知られています。
16温かき閣下のご配慮を持ちまして、 国民たちの衣食住の点のみに ご高配を賜りますように」 マッカーサーは自分の予測の正反対の 状況に驚愕し、パイプを置いて立ち、 昭和天皇の前で、 同じく直立不動の姿勢をとっていた。
中国人民志願軍の参戦 [ ] 詳細は「」を参照 仁川上陸作戦の大成功によりマッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、統合参謀本部は国連決議を待たず、9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。 トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった。 ある時にはマッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。
19』 マッカーサー元帥に、昭和天皇の心持ちを伝え御物の目録を差し出すと、すでに最初の訪問で「自分の身はどうなっても国民を助けてほしい」という言葉に感動を覚えていた元帥は、こう言いました。
また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し 、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。