マダムの直前で、わたしたちは左右二手に分かれ、それぞれ小声で「失礼します」とつぶやいて歩み去りました。
観客の体験はまさに「わたしじゃない」ものとして体験されるのである。 トミーの件にそれがよく現れているのではないでしょうか。
3議論をさらに進めるための補助線として、再びケイヴの指摘を参照したい。
2人は知らぬ間に暗殺工作に引きずり込まれ、捨て駒にされたのだ。 むしろ「口」の語りにおいて語る者と聴く者、見る者と見られる者の関係は不安定な、入れ替え可能なものとして提示されているとさえ言えるだろう。 ところが、戯曲を詳細に検討していくと「声」と「脳」という分裂は最終的にほとんど無効となっていくことがわかる。
7「口のきけない」と言われていた「彼女」の口から「一年に一度か二度」「たえまなく溢れるように言葉が」(21)発せられることがあったということが語られるからだ。
「わたしはこのような体験をしている」という観客の意識は自らの体験そのものに対する主観的であり絶対的な認識だが、「わたしは『彼女』と同じような体験をしている」というのは自らの体験と「彼女」の体験とを比較した結果として生じる相対的な認識である。
『わたしじゃない』の観客はその上演を観ることで、「口」の語る「彼女」と類似した状況に置かれることになる。
つまり、「声」を聴き続ける「脳」がそうであったように、支離滅裂な「口」の語りを聴き続ける「聴き手」もまた、いつしか「口」と同化してしまっているのではないかという推測である。 そう思っている人間が一人いるということね」 「それにな、先生は話しながら震えていた」 「震えていた?どういう意味よ」 「だから、怒りで震えていたんだよ。 本稿における日本語訳は高橋訳を基本としつつ、Samuel Beckett. 逮捕されてから「あなたは人を殺したんですよ」って言われたんですよ。
ところが残りの6つについては、「口」が「想像してよ」と要求する「言葉が聞える」「彼女が何を言ってるかわからない」などの内容は観客が舞台上に見聞きする内容と一致してしまっている。
シリア内紛は『プライベート・ウォー』、難民問題は『ヒューマン・フロー 大地漂流』などと併せて観ると、事の起こりがより理解できると思う。 実際に言葉を発しているのは「口」なのだが、観客に見えるのは「約二メートル五〇センチ」の高さに浮かび、身体の他の部分から切り離された「口」という異様な物体であり、観客がそれを声の発生源であると即座に特定することは難しい。 戯曲冒頭のト書きにはこうある。
3。
高層ビルや巨大モールが立ち並ぶジャカルタ市中心部から車で2時間のランカスムルで育った。
観客が「口」の言葉の中にすでにflickeringという単語を認識していた場合、再び「口」がflickeringという言葉を発したならば、観客はそこから「口」の語りの意味を解釈しようとするだろう。
こっちのことをいいながら、あっちのことを思い出したんだから・・・・キャス、どうした。 それに階段でのあの立ち話がなかったら、たぶん、次の数週間、わたしはトミーが抱えている問題にあれほどの関心を持つこともなかったでしょうから。
2その後、どうなったか?っていうのはみんな、あんまり関心がないから知らないでしょう? (山里亮太)たしかに。
直前に聞いた単語と今まさに発話されている単語との比較がなされ、その関連が理解されなければ語られる一連の言葉を意味のあるまとまりとして理解することはできない。 『わたしじゃない』の観客はその上演において即座に意味を理解することから隔てられている。 「口」や「聴き手」、そして語られる「彼女」との関係、区別が「口」の語りを聴く中で曖昧となり、その境界が不明瞭なものとなっていったように、劇場において「口」の語りを聴く観客もまた、「彼女」「口」「聴き手」との不明瞭な関係の中に巻き込まれていくようである。
13この2人は。