986年:寛和の変が起こる• 頼通や一上である藤原実資も重大な案件に関しては出家後も道長に判断を仰いでいるが、道長の意見が摂関や太政官の方針に異論を挟んだ場合でも頼通らが必ずしもその意見には従っていない。 摂関政治といわれるのは、このためです。 道長はの全盛期を築き、の崩壊後も彼の子孫()のみが摂関職を代々世襲し、本流から五とのうち三家(・・)を輩出した。
5。
そのようななかで広大な荘園を手に入れて平安時代を代表するような権力までもを手にすることが出来たのが藤原氏であって、特に道長と頼通の親子の時代に最盛となったのです。
17母: -守の娘• このときの天皇は、一条天皇。
寛弘8年()6月、病床に臥した一条天皇は東宮(冷泉天皇の皇子)に譲位し、剃髪出家した後に崩御した。 天皇は娍子に后妃となる資格を与えるために父の済時に右大臣を贈官し、妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始される日程が組まれていた(実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった)。 豪運で掴み取った機会を決して逃さず、自らの権力を盤石にするため後宮政策に本腰を入れ始めます。
12それらと同じくらい「山法師」に手を焼いていた・・・と言いたかったのです。
この政争に兼家は敗北。 このテーマについては以下の記事でご紹介しています。 その最中に関白道隆も病に倒れるが、これは疫病ではなく普段のが原因で道隆は天皇に後継の関白として伊周を請うが許されず、病中ののみが許された。
161253-1254• うん、遣唐使いらない! という考えはある人物によって提案され、遣唐使の廃止へとつながったんだ。
その後、天皇の正妻である娘が産んだ男の子を即位させることで、天皇に代わり政治を行ったのです。
円融天皇を系図で見ると、母方の祖父(外祖父)は藤原師輔(ふじわらのもろすけ)。
(後冷泉天皇中宮)、(中宮)の母• 1703-1707• もちろん、陰陽師をつかって呪詛する、などということも、この時代には当然こと。 遣唐使の廃止に一躍かった菅原道真。
藤原氏は蘇我氏よりもはるかにしたたかだったからこそ、これだけ長く政治中枢に食い込み続けたのだと私は思います。
あとは、一条天皇の中宮になった娘の彰子に、皇子を生んでもらい、その皇子が天皇になったとき、その摂政になることですね。 2年()• 1235-1237• 1222-1223• 当時の 天皇・一条天皇には、愛する 定子(ていし)という中宮がいました。
19藤原道長は 内覧(ないらん)という権限を得て、遂に政治の実権を握りるようになります。
だから、天皇の母方の祖父を見ると、当時の権力者が誰なのかすぐわかるんですよね。 道長は実質上の最高権力者となりましたが、摂政の地位をたった1年で息子の頼通に譲ります。
12朝廷ラブロマンス しかし、藤原道長は運がいいだけの男ではありません。